弾き語りアルバム「め」とデジタルシングル 「ねじこ」とは
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満を持しての発表と言っていいだろう。
前作シングル『航海の唄』から約半年、さユりが世界に送り出す最新作は、
弾き語りアルバム『め』、そして新機軸とも言える楽曲“ねじこ”である。
これまで彼女の足取りを追いかけ、不器用なまでのその生き方に救われてきたリスナーからすれば、彼女が「弾き語り」アルバムをリリースする、ということがどういった意味を持っているか、きっとわかっているだろう。
さユりにとっての「弾き語り」――。
誤解を恐れずに言わせてもらうのなら、それは「すべて」だった。
さユりにとっての「音楽」とは、いつだって「酸欠」状態で生きてきた自らにとって、それでも日々を生きていくための光であり、微かな希望であり、生きていることをリアルに実感させる苦しみや悲しみでもあった。
生きていく中で目に映る光。
それにすがるように、必死に生きていく小さな希望。
呼吸を続けていくことで出会う悲しみ、苦しみ、やるせなさ、虚しさ。
言ってしまえば、喜怒哀楽のすべては、さユりにとって「音楽」を通して知り、歌を通して向き合うものであり、実感していくものだったのではないか。
だから、さユりにとって、音楽とは文字通り、生きることであり、生きていく中で思うすべての感情に形を与え、ひとつひとつをきちんと成仏させていくための――日々欠かすことのできない営みであり、と同時に、どこか儀式のようなものだったのだと、あらためて思う。
そうやって、さユりはギターを手にした瞬間からの日々を、懸命に生き抜いてきた。
その切実な生き方と、音楽とさユりによる緊密な関係を思う時、彼女の傍らには、その震える声を支えるように常に寄り添っているものがある。
そう、それがさユりにとっての「弾き語り」だったのだと思う。
弾き語ることによって呼吸をし、弾き語ることによって世界を見つめ、世界に見つけられ、今もなおそのキャリアの重要なシーンにおいて、大切に慈しむように披露される「弾き語り」――。
そんな歩みの「すべて」であり、生き方そのものでもある弾き語りを、今そのまま作品にしようと考えたさユり。
その決心は今、何を伝えようとしているのだろう。
今回の弾き語りアルバム『め』は、さユりのキャリアを総括するように作られている。
歩みの一歩一歩をそのまま収めるように選曲されているし、もう少し具対的に言うなら、シングル表題曲はもちろん、ライブでの人気曲やコラボ曲など、彼女の一里塚になっている楽曲がすべて収録されている。「ベスト盤」と言ってもいいだろう。
全15曲。全71分。
これを多いと取るか、適正と取るかはかその人の価値観によるが、僕はこの物量は「極めて多い」と受け取った。
そして、と同時に、これは「適正」なのだとも――もっと言うなら、「こうでなくてはならなかった」のだと感じるのである。
さユりの弾き語りアルバム、それはまさに自らの歩み、その「すべて」を収めたものでなくてはならなかったのだと思う。
細かく震え続ける声をそのまま、震えるがままに刻み込んだ全15曲を聴くにつれて、ここにあるのはただ15の「楽曲群」などではなく、さユり自身が描いた自画像のようなものであり、さユり自身が歌う生々しいまでの「半生記」なのではないかと感じられて仕方がない。
それにしても、印象深い瞬間が連なっていく作品である。
1曲目、今回が初音源化となる“夜明けの詩”が立ち上がる瞬間のギターの擦過音、そのリアルな手触り。
記念すべきデビュー曲“ミカヅキ”の、「それでも」という言葉が凛とした美しさを伴って飛び込んでくる瞬間のスリル。
盟友・Hiro(MY FIRST STORY)とともに歌われた、陽光の到来を願う“レイメイ”をさユりひとりの歌声で届けるというその覚悟、決意。
すべてがたった「ひとり」の、ただただ澄み切った「声」として届けられる時、そこには、ひとりの少女がこれまで何に支えられながら生きてきたのか、その足跡が浮かび上がってくるように感じられるのである。
何より印象深いのは、さユり自身の歌声に、どこか穏やかな、どこかあたたかみとも呼べるような、「温度」が感じられることだろう。
デビューからの5年間、それこそ“ミカヅキ”でデビューした時から、「あなた」と交われないままの進んでいく生き方を“平行線”という言葉に託し、それでもまた「出会いたい」という一縷の希望を“来世で会おう”という思いに刻み、そのたびに生身の心情に向き合いながら、時に怯えながら、小さな自分を奮い立たせるように歌い続けてきたさユり。
そんな日々を生きる中で歌われたものを「決死」の歌だったとするならば――。
今これまでの道を振り返るかのように弾き語りで歌われるこの歌たちにあるものは、うっすらと光を帯びた、静かな肯定を感じさせるものである。
「慈しみ」、と言ってもいいのではないだろうか。
そして、この優しさや愛しみとも言える手触りは、ここまで生き、歩き続けてきた自らの「過去」への肯定でもあり、何よりも、今も世界の片隅で生き、必死に呼吸を続けている世界中の酸欠少女たちへと捧げられた讃歌のようにも聴こえる。
自らの生と過去を歌い、肯定していくことで、他者の今を救っていく――。
それがポップミュージックの、もっと言うならば、音楽に与えられた価値なのだとすれば、さユりは今、自分の生き方を支えてきた「弾き語り」によって「過去」を歌い、まさにその役割をまっとうしようとしているのではないか。
この力強くも繊細な、あたたかでたおやかな歌声が帯びはじめた慈しみとはまさに、さユりが「酸欠少女」として生きてきたこの5年間を振り返り、どこか愛しく思えたことの証明、その肯定宣言にほかならないのではないか。
僕にはそんなふうに思えて仕方ない。
そう考えた時、この集大成的な弾き語りアルバム『め』と、新曲“ねじこ”が同時に発表されることもまた、偶然ではないのだろうと思う。
“ねじこ”は、さユりが新たな「さユり」を歌おうと願い、実際に歌ってみせた、記念すべきポップソングである。
長くさユりに触れてきたリスナーをこそ、爽快で軽やかなインパクトで包み込むであろう、そして、どこか重く閉ざされたドアをこじ開けてみせるような楽曲である。
テンポよく刻まれるイントロの中、颯爽と駆け出していくさユりは、こう歌ってみせる。
《新(さら)のスカート 風に揺らして 立ちはだかった難題を前に/微笑み戦うガール》
《曲がりくねってく僕らの不器用を/笑い飛ばしてみたいのさ》
これはまさに、一陣の風が吹く新たな「世界」へと歩みだしたさユりが、その目に映る景色とその全身で今感じていること、その「実感」を綴ってみせた言葉だろう。
その歌声は今もなお、何かを吹っ切るようにえいやっと歌われるあのさユりの歌だが、通奏低音として鳴らされている確信的なメッセージはどこかあたたかく、むしろ「熱さ」すら感じさせるまっすぐなものである。
今もなお懸命に日々を送る自らを含めた、「日々を戦うすべての『誰か』への」ポップソング――。
そう仮定してみた時、“ねじこ”が告げるサビの言葉はひときわ眩しく、ひときわ肯定的に響いてくる。
《ねじこぼれた自由を歌え 手にあるもの全てで踊ろうぜ》
《問題は何もない ただこの道を照らすだけ》――。
かつて、欠けた月=「ミカヅキ」として自らの生き方を歌ってきたさユりは今、そんな「ミカヅキ」のまま生きていくことの「自由」を歌っている。
羨む心と後悔の念を抱きながら、ひたすら夜空を見上げていた少女は今、目の前の景色へと視線を据え、ドアを開け、一筋の風を受けながら、「自由」を歌おうとしているのである。
この再びの「始まり」をもって、さユりの「第二章」の幕開けを見出すことは決して難しいことではないと僕は思う。
さユりの「第二章」――。その始まりの曲=“ねじこ”にはさらに、こんな言葉が与えられている。
《二人 向かい風の中入った/入口が出口だった》――。
そう、これまでずっと「入口」に入ったまま、その場から動けず、ただ夜空を見上げることしかできなかったその場所は、そのまま「出口」でもあったのである。
生きている場所は変えられない。ミカヅキのまま生きていかなくてはいけない現実を変えることもできない。もちろん、今、すぐに生まれ変わることなど、できるわけもない。
しかし、世界の見方、世界とは何か、これからも生きていくその場所は本当に見上げることしかできないのだろうか、実はそこには一陣の風が吹いていて、その風を感じることは本当にできないのだろうか――。
さらに言うのならば、自分が変えることができるのは、「世界」でも「過去」でも、「未来」でもなくて、きっと「今」「自分」だけなのではないか――。
さユりは今、この曲でそんなことを歌おうとしているのではないか。
23歳になったさユりが今、歌うべき楽曲は、きっとそんな颯爽とした決心が歌われたポップソングでなければならなかった。
そして、その楽曲は、過去の自分のようにその場所から見上げることしかできない「酸欠少女」たちに捧げられた、すべてのさユりたちを「出口」に導くメッセージソングでなければならなかったのだと思う。
今あなたが立っているその場所は「入口」であり、「出口」でもあるんだということを告げ、そこから先の自分へと導いていく、一筋の光のような楽曲でなければならなかったのだと思う。
弾き語りアルバム『め』の冒頭、“夜明けの詩”で、さユりは《過去に負けないで 一歩踏み出せ》と歌い、「これまで」のすべてを振り返るための15曲の航海を始めていく。
やがて訪れる15曲目、ラストトラック“十億年”に収められた最後の言葉、それは自らの「役割」をめぐる思索の言葉――《この向こうには ねぇ? 何が、あるのかな/この時代でこの場所で何ができるだろう》――だった。
そして、今、さユりは自らが選んだ新たな「入口」に立ち、始まりの歌“ねじこ”で、「手にあるものすべてで踊ろうぜ」と、「手にあるもの以外は何もないぜ」と、「今この向かい風の中で、この出口の前で自由を歌おうぜ」と叫んでみせたのである。
さユりが自ら歩みだした「第二章」――。
この新たな物語の先にはいったい、いかなる景色が広がっているのだろう。
自由を歌うことに決めた「酸欠少女」はこれから、いかなる歌を歌い、世界の片隅に佇む無数の孤独な同士たちとどう共振し、何を教え、いかなる海路へと導いていくのだろう。
あの日、空を見上げることしかできなかった「ミカヅキ」がその歩みを進めていくたびに生み落としていく「肯定」の願い。
自らが進む道をその欠片で照らし、この「酸欠少女」が歩んでいく物語は、きっと消えることのない、新たな希望を描き出していくのだろう。
小栁大輔(ROCKIN’ON JAPAN)
前作シングル『航海の唄』から約半年、さユりが世界に送り出す最新作は、
弾き語りアルバム『め』、そして新機軸とも言える楽曲“ねじこ”である。
これまで彼女の足取りを追いかけ、不器用なまでのその生き方に救われてきたリスナーからすれば、彼女が「弾き語り」アルバムをリリースする、ということがどういった意味を持っているか、きっとわかっているだろう。
さユりにとっての「弾き語り」――。
誤解を恐れずに言わせてもらうのなら、それは「すべて」だった。
さユりにとっての「音楽」とは、いつだって「酸欠」状態で生きてきた自らにとって、それでも日々を生きていくための光であり、微かな希望であり、生きていることをリアルに実感させる苦しみや悲しみでもあった。
生きていく中で目に映る光。
それにすがるように、必死に生きていく小さな希望。
呼吸を続けていくことで出会う悲しみ、苦しみ、やるせなさ、虚しさ。
言ってしまえば、喜怒哀楽のすべては、さユりにとって「音楽」を通して知り、歌を通して向き合うものであり、実感していくものだったのではないか。
だから、さユりにとって、音楽とは文字通り、生きることであり、生きていく中で思うすべての感情に形を与え、ひとつひとつをきちんと成仏させていくための――日々欠かすことのできない営みであり、と同時に、どこか儀式のようなものだったのだと、あらためて思う。
そうやって、さユりはギターを手にした瞬間からの日々を、懸命に生き抜いてきた。
その切実な生き方と、音楽とさユりによる緊密な関係を思う時、彼女の傍らには、その震える声を支えるように常に寄り添っているものがある。
そう、それがさユりにとっての「弾き語り」だったのだと思う。
弾き語ることによって呼吸をし、弾き語ることによって世界を見つめ、世界に見つけられ、今もなおそのキャリアの重要なシーンにおいて、大切に慈しむように披露される「弾き語り」――。
そんな歩みの「すべて」であり、生き方そのものでもある弾き語りを、今そのまま作品にしようと考えたさユり。
その決心は今、何を伝えようとしているのだろう。
今回の弾き語りアルバム『め』は、さユりのキャリアを総括するように作られている。
歩みの一歩一歩をそのまま収めるように選曲されているし、もう少し具対的に言うなら、シングル表題曲はもちろん、ライブでの人気曲やコラボ曲など、彼女の一里塚になっている楽曲がすべて収録されている。「ベスト盤」と言ってもいいだろう。
全15曲。全71分。
これを多いと取るか、適正と取るかはかその人の価値観によるが、僕はこの物量は「極めて多い」と受け取った。
そして、と同時に、これは「適正」なのだとも――もっと言うなら、「こうでなくてはならなかった」のだと感じるのである。
さユりの弾き語りアルバム、それはまさに自らの歩み、その「すべて」を収めたものでなくてはならなかったのだと思う。
細かく震え続ける声をそのまま、震えるがままに刻み込んだ全15曲を聴くにつれて、ここにあるのはただ15の「楽曲群」などではなく、さユり自身が描いた自画像のようなものであり、さユり自身が歌う生々しいまでの「半生記」なのではないかと感じられて仕方がない。
それにしても、印象深い瞬間が連なっていく作品である。
1曲目、今回が初音源化となる“夜明けの詩”が立ち上がる瞬間のギターの擦過音、そのリアルな手触り。
記念すべきデビュー曲“ミカヅキ”の、「それでも」という言葉が凛とした美しさを伴って飛び込んでくる瞬間のスリル。
盟友・Hiro(MY FIRST STORY)とともに歌われた、陽光の到来を願う“レイメイ”をさユりひとりの歌声で届けるというその覚悟、決意。
すべてがたった「ひとり」の、ただただ澄み切った「声」として届けられる時、そこには、ひとりの少女がこれまで何に支えられながら生きてきたのか、その足跡が浮かび上がってくるように感じられるのである。
何より印象深いのは、さユり自身の歌声に、どこか穏やかな、どこかあたたかみとも呼べるような、「温度」が感じられることだろう。
デビューからの5年間、それこそ“ミカヅキ”でデビューした時から、「あなた」と交われないままの進んでいく生き方を“平行線”という言葉に託し、それでもまた「出会いたい」という一縷の希望を“来世で会おう”という思いに刻み、そのたびに生身の心情に向き合いながら、時に怯えながら、小さな自分を奮い立たせるように歌い続けてきたさユり。
そんな日々を生きる中で歌われたものを「決死」の歌だったとするならば――。
今これまでの道を振り返るかのように弾き語りで歌われるこの歌たちにあるものは、うっすらと光を帯びた、静かな肯定を感じさせるものである。
「慈しみ」、と言ってもいいのではないだろうか。
そして、この優しさや愛しみとも言える手触りは、ここまで生き、歩き続けてきた自らの「過去」への肯定でもあり、何よりも、今も世界の片隅で生き、必死に呼吸を続けている世界中の酸欠少女たちへと捧げられた讃歌のようにも聴こえる。
自らの生と過去を歌い、肯定していくことで、他者の今を救っていく――。
それがポップミュージックの、もっと言うならば、音楽に与えられた価値なのだとすれば、さユりは今、自分の生き方を支えてきた「弾き語り」によって「過去」を歌い、まさにその役割をまっとうしようとしているのではないか。
この力強くも繊細な、あたたかでたおやかな歌声が帯びはじめた慈しみとはまさに、さユりが「酸欠少女」として生きてきたこの5年間を振り返り、どこか愛しく思えたことの証明、その肯定宣言にほかならないのではないか。
僕にはそんなふうに思えて仕方ない。
そう考えた時、この集大成的な弾き語りアルバム『め』と、新曲“ねじこ”が同時に発表されることもまた、偶然ではないのだろうと思う。
“ねじこ”は、さユりが新たな「さユり」を歌おうと願い、実際に歌ってみせた、記念すべきポップソングである。
長くさユりに触れてきたリスナーをこそ、爽快で軽やかなインパクトで包み込むであろう、そして、どこか重く閉ざされたドアをこじ開けてみせるような楽曲である。
テンポよく刻まれるイントロの中、颯爽と駆け出していくさユりは、こう歌ってみせる。
《新(さら)のスカート 風に揺らして 立ちはだかった難題を前に/微笑み戦うガール》
《曲がりくねってく僕らの不器用を/笑い飛ばしてみたいのさ》
これはまさに、一陣の風が吹く新たな「世界」へと歩みだしたさユりが、その目に映る景色とその全身で今感じていること、その「実感」を綴ってみせた言葉だろう。
その歌声は今もなお、何かを吹っ切るようにえいやっと歌われるあのさユりの歌だが、通奏低音として鳴らされている確信的なメッセージはどこかあたたかく、むしろ「熱さ」すら感じさせるまっすぐなものである。
今もなお懸命に日々を送る自らを含めた、「日々を戦うすべての『誰か』への」ポップソング――。
そう仮定してみた時、“ねじこ”が告げるサビの言葉はひときわ眩しく、ひときわ肯定的に響いてくる。
《ねじこぼれた自由を歌え 手にあるもの全てで踊ろうぜ》
《問題は何もない ただこの道を照らすだけ》――。
かつて、欠けた月=「ミカヅキ」として自らの生き方を歌ってきたさユりは今、そんな「ミカヅキ」のまま生きていくことの「自由」を歌っている。
羨む心と後悔の念を抱きながら、ひたすら夜空を見上げていた少女は今、目の前の景色へと視線を据え、ドアを開け、一筋の風を受けながら、「自由」を歌おうとしているのである。
この再びの「始まり」をもって、さユりの「第二章」の幕開けを見出すことは決して難しいことではないと僕は思う。
さユりの「第二章」――。その始まりの曲=“ねじこ”にはさらに、こんな言葉が与えられている。
《二人 向かい風の中入った/入口が出口だった》――。
そう、これまでずっと「入口」に入ったまま、その場から動けず、ただ夜空を見上げることしかできなかったその場所は、そのまま「出口」でもあったのである。
生きている場所は変えられない。ミカヅキのまま生きていかなくてはいけない現実を変えることもできない。もちろん、今、すぐに生まれ変わることなど、できるわけもない。
しかし、世界の見方、世界とは何か、これからも生きていくその場所は本当に見上げることしかできないのだろうか、実はそこには一陣の風が吹いていて、その風を感じることは本当にできないのだろうか――。
さらに言うのならば、自分が変えることができるのは、「世界」でも「過去」でも、「未来」でもなくて、きっと「今」「自分」だけなのではないか――。
さユりは今、この曲でそんなことを歌おうとしているのではないか。
23歳になったさユりが今、歌うべき楽曲は、きっとそんな颯爽とした決心が歌われたポップソングでなければならなかった。
そして、その楽曲は、過去の自分のようにその場所から見上げることしかできない「酸欠少女」たちに捧げられた、すべてのさユりたちを「出口」に導くメッセージソングでなければならなかったのだと思う。
今あなたが立っているその場所は「入口」であり、「出口」でもあるんだということを告げ、そこから先の自分へと導いていく、一筋の光のような楽曲でなければならなかったのだと思う。
弾き語りアルバム『め』の冒頭、“夜明けの詩”で、さユりは《過去に負けないで 一歩踏み出せ》と歌い、「これまで」のすべてを振り返るための15曲の航海を始めていく。
やがて訪れる15曲目、ラストトラック“十億年”に収められた最後の言葉、それは自らの「役割」をめぐる思索の言葉――《この向こうには ねぇ? 何が、あるのかな/この時代でこの場所で何ができるだろう》――だった。
そして、今、さユりは自らが選んだ新たな「入口」に立ち、始まりの歌“ねじこ”で、「手にあるものすべてで踊ろうぜ」と、「手にあるもの以外は何もないぜ」と、「今この向かい風の中で、この出口の前で自由を歌おうぜ」と叫んでみせたのである。
さユりが自ら歩みだした「第二章」――。
この新たな物語の先にはいったい、いかなる景色が広がっているのだろう。
自由を歌うことに決めた「酸欠少女」はこれから、いかなる歌を歌い、世界の片隅に佇む無数の孤独な同士たちとどう共振し、何を教え、いかなる海路へと導いていくのだろう。
あの日、空を見上げることしかできなかった「ミカヅキ」がその歩みを進めていくたびに生み落としていく「肯定」の願い。
自らが進む道をその欠片で照らし、この「酸欠少女」が歩んでいく物語は、きっと消えることのない、新たな希望を描き出していくのだろう。
小栁大輔(ROCKIN’ON JAPAN)