さユりとMY FIRST STORYが共作し、共演を果たした“レイメイ”。
この曲を初めて聴いたのは、今年の夏、8月5日、ひたちなか。ROCK IN JAPAN FESTIVAL 2018のステージにおいてだった。
灼熱の日だった。12時45分、さユりは、自身のステージが終わった直後、MY FIRST STORYが出演するLAKE STAGEに向かった。
青すぎるほどの晴天の中、怒涛のようなサウンドでオーディエンスを鼓舞し、熱波に巻き込んでいくMY FIRST STORYのパフォーマンス。
その終盤、「力を貸してくれ」というHiroのMCに呼ばれ、さユりは、熱気をまとったオーディエンスが待つ、大きなステージに飛び出していった。
そして歌われた“レイメイ”。
それまでの、真っ赤に燃え上がるような、巨大な興奮が取り巻いていたそのステージに一筋の涼風が吹いたような、どこかひんやりと澄み切った空気が降りてくるかのような、急激な変化がその時、LAKE STAGEに訪れたように感じたことを強く覚えている。
マグマの湧く大地にオーロラの幕が振り落とされるような、「熱」と「清」の共演、交わり。
いや、覚えているのは、さユりとHiro、どちらかが「熱」で、どちらかが「清」であるというような明確な何かではない。ふたりともに熱く、清らかで、ふたりの中で渦巻いている「熱」と「清」が瞬間ごとに入れ替わっていく、そして交差し、交わっていくそのスリリングな時間の強烈さについて、である。
ふたりの声の震え、ゆらぎ。巨大なサウンドスケープ。灼熱の太陽。興奮を絶やさずに歓声を上げ続けるオーディエンス。
それらはすべて、この楽曲が鳴らされた5分間にしかない奇跡じみた「体験」を演出するものに思えてしまう。そんなあまりに鮮烈な、忘れがたい時間だった。嘘のような5分間だった。
その日、そんな奇跡を目撃するまで、どこかで心配をしている自分もいた。
というのも、さユりはいつも、たったひとりで歌の世界観を作ってきたし、ひとりで佇むその孤独をどこか支えにし、自分の体をぎゅっと抱きしめるようにして――つまり、「孤独な自分」を認識し、その自分を越えたいというアイデンティティの中で戦い、歌い、言葉を紡いできたからだ。
アルバム『ミカヅキの航海』はそんなさユりにとって、それまでの20年の人生を肯定し、その先へ進んでいくという宣言がなされた作品だった。
「ひとり」が、また違う「ひとり」に出会うからこそそこには希望が生まれるんだという確信。
さユりの歩みとは、その確信を求め、積み重ねていくことその道程のことだったと言うことができるだろう。
「人はひとりである」「だからこそ、希望があるんだ」という観念に基づいた、どこか倒錯したポジティヴィティ。
そんなさユりがコラボレーションを果たすというのである。
彼女の世界観は揺さぶられ、新たな物語が始まる、そして、それは彼女の表現を根本から変えてしまうものなのではないか――。
僕は、そんな不安と期待がないまぜになった感情を持て余すような感覚をずっと持っていた。
結論めいた話からしてしまうのならば、このシングル『レイメイ』はさユりの作品である。それはもう完璧なまでにさユりのシングルであり、さユりにしか歌えない、さユりだけの世界がそこには綴られている。
つまり、孤独の叫びであり、世界との摩擦を嘆く言葉であり、しかしそれでもつながりたいという願いで包み込まれた、かすかで、だが絶対に消えない希望の歌である。
しかし、驚くべきことに、“レイメイ”はまったく同じように、MY FIRST STORYの楽曲なのである。どう聴いてもMY FIRST STORY、Hiroが歌うべき世界がここには間違いなく刻まれているのである。
さユりとHiroの真っ白な声が出会い、お互いの世界を汚すことなく、平行線をたどるように、しかし美しく絡み合って、「孤独」と「孤独」のあり方をぶつけ合う。そして、その不器用なコミュニケーションの果てで、つながりたいという願いを交歓している。
恐れることなく、震える感情をそのまま言葉に託し、歌という表現の強さを体現していくさユりの歌声。
喜怒哀楽を吐息ひとつで表現するかのような、重層的な感情を込めて吐き出されるHiroの歌声。
その声は似ているわけではない。
しかし、何かが確実に似ている。
それはあえて言うなら、歌うことの理由、あるいは歌うことでしか手に入らない願い。そして、歌っても歌っても、決定的に満たされる日は来ないのだろうという業とでも言うべき、歌への必然性。
歌う理由も願いも、あるいは歌い続けるしかない業も、それぞれに抱え、飲み込み、乗り越えようとあがいてきた「孤独」を取り囲むように存在しているものなのだとして、その孤独の形が似ている。
言葉にするのなら、ふたりがまとっている空気はそういうものなのではないか。
レイメイ。黎明。
それは、何かが始まり、夜が明けていくさまを思わせるとても美しい言葉である。
さユりとHiroが出会い、孤独の形を共鳴させることで生まれた曲にこのタイトルが冠されたことは偶然などではもちろんない。
リスナーには歌詞に向き合い、この5分間を追っていってほしいと願う。
欲望、夢、歪な運命——。さユりが歌う言葉はどこか裏腹である。「君」を求める「私」。しかし、求めれば求めるほどに遠ざかっていく黎明の時。
しかし、さユりはここで、「その時」の情景を描き、「君」に思いを伝えることができるその日まで進み続けていくのだと鋭く、力強く歌っている。
嘘、彷徨、苦しみ、冷たい約束——。Hiroが発する言葉は憂いそのものだ。荒れ狂うような荒波を進むことが人生なのだと悟り、その哀しみを叫びに変えていく「僕」。
そして、深く永い旅の中で、「君」に出会うことができるその日まで、泥濘のような日々の中で「祈り」を描くんだと、Hiroは気高く歌っている。
ふたりは、ただただ「ひとり」である。この楽曲においても、ふたりは徹底的に、「ひとり」と「ひとり」なのである。
ふたりは、そんな「ひとり」と「ひとり」の主人公に自らの言葉を託し、まるで地を這うように切実に、「その時」への思いを歌っていく。
さユりは曲中においても、「言葉」を綴り続けていく。
詞であり、詩であり、呟きであり、同時に心底からの叫びでもある言葉たちの羅列。
心の震えがそのまま、言葉という輪郭を与えられ、「ひとり」と「ひとり」の間にかすかなつながりを生み出していく。
さユりの言葉は、孤独と孤独のあいだに、小さな飛び石を落としていくかのように、かすかな希望を描き出していく。
Hiroの優しく、真っ白い歌声。
彼の声は、さユりの言葉と言葉を手引きし、つなげ、熱を与えていくかのようだ。そうして、この楽曲は徐々に時を刻み、やがて訪れる「その時」へと向かっていく。
楽曲のラスト。
ふたりはそれぞれの歩みを続けてきた最後の最後に、同じ叫びを重ね合わせる。
それはこんな言葉である。
「たった一つの朝焼けを手に入れるの」――。
さユりはこれまでもずっと、人間は「ひとり」なのだと、しかし、だからこそ、「ひとり」と「ひとり」の間に生まれる希望を諦めたくないんだ、という叫びを歌ってきた。
その歩みは、切実だった。
そして、歳月を重ねるたびに、力強さとまっすぐさを獲得していったその歌。
その日々は、彼女自身のモチーフ=「ミカヅキ」が徐々に美しい円に近づいていくさまを思わせるような、とても感動的な歳月のことでもあった。
そして、さユりはその旅路の最先端に立ち、今、“レイメイ”にたどり着いた。
さユりはここで再び、「ひとり」はやはり「ひとり」なのだと綴り、「ふたりのレンズには別々の景色が写っていた」と呟き、そのやるせなさを受け止め、ただただまっすぐに歌っている。
絶対に譲れない思いがある、その思いを「君」に伝える日まで、進み続けていくのだ、と歌っている。
そして、その先にこそ、「ひとり」と「ひとり」が、孤独と孤独であることを受け入れることで手に入れられる、「たった一つの朝焼け」があるのだと歌っているのである。
そんなあまりに歪であまりに美しい瞬間=“レイメイ”に出会えたさユり。
この泥臭く、圧倒的に眩しいこの歌を、さユりにとっての「新しい歌」と呼ばずになんと呼んだらいいのだろうか。
僕は今、そんなふうに思う。
人間は「ひとり」同士だからこそ出会える奇跡があるという真実。
これまでも、これからも自身を突き動かしていくに違いないその真実。
そんな奇跡に「レイメイ」という言葉を与え、いつか出会うべきだった宿命の情景が広がる夜明けの地に立ったさユりの旅は今、また新たな目的地へと向かって進み始めたのだ。
小栁大輔(ROCKIN’ON JAPAN編集長)